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欒布って [史記メモ]

列伝で読んだ記憶が・・・。 ↓








































「漢武」で登場したんですが、何代にも仕えた人だと言われていたので史記を見てみました。

ああ!季布とセットで書かれている、彭越の友達か! 塚本先生の小説にも登場してました?(うる覚え~。図書館借りのみの本かな; 今度図書館で見てきます…)

彭越が殺された後、城下にさらされた(可哀想すぎる)首の下で任務を報告し、霊を祭り、大声で泣いたので、謀反に加担した疑いを受け、劉邦の所に引き立てられられる。

煮殺されそうになったが、彭越がいなければ劉邦は項羽に勝てなかった事を説き、許されて都尉に任命される。
劉恒時代には燕の大臣に。呉楚七国の乱でも戦功を立てる。
義に篤く、人々から敬愛された。

★劉一族もいっぱい出てきてさっぱりですが^^;。
楚漢戦争の頃には劉邦の家の人はそんなに出てきませんよね。劉か しか思い浮かばない。

天下を統一してから寄って来た人も多いんでしょうか? ううむ。
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韓信の動き&特別扱い(笑 [史記メモ]

韓信の漢軍入りの時期と、彭城攻めの時の所在地・・・。いつも分からなくなるのでメモを。
それと、韓信はドラマではひいきされてるという自説(しょーもない説)を 笑

★韓信の漢軍入りの時期

中国ドラマは
「漢楚軍談」から取ってる様で、(これを知らない時には、ドラマがドラマをぱくってると思ってました・・・^^;)
咸陽の辺りで張良に誘われて決意、劉邦達が入った後を追うように1人で行き、
途中で道を教えてくれたおじいちゃんを殺し(これ、結構ひどいよなT_T)、
人材募集をしてる館で夏侯嬰とまず出会い、その後蕭何に紹介されるという流れ。

史記は
◆漢王が蜀入りする時、楚から逃亡して帰属。→名を知られないまま連ごうに任命。→法に触れて打ち首→・・・・(淮陰侯列伝P8 岩波文庫 )

★彭城攻めの時の韓信

ドラマでは、韓信は咸陽に留守番してたり、参加してたりと分かれるが、
史記では、
◆4月 漢軍は負け、ちりぢりになって・・・、韓信はふたたびそれらを敗残の兵を指揮下に収め、漢王とけい陽で落ち合い・・・(淮陰侯列伝p13)
↑ これは韓信も彭城攻めの軍に参加してたという事・・・?

そういえば、廃丘水攻めで章かん自殺 は、三秦平定の時期とは、ずれるんですよね・・・(いつも忘れる)。
彭城攻め、劉邦子捨て事件の後で、
◆黄河の水を導入して廃丘を水攻めにし、廃丘は降伏して章かんは自殺した(高祖本紀P70 朝日文庫史記)
↑ こっちも韓信が指揮したとは書かれていないのです。韓信かもしれないし、他の人かも?

★ドラマ(漢楚軍談?)の韓信が、史記と変えてあるのは何故??

(違う所は・・・)
・張良や范増が韓信の才能に、早くから目をつけている
・韓信は張良よりも上手で、張良の行動・策略を全て読んでいる!
(↑ 私が張ファンなので、これを怒ってるわけではないです 笑)
・1人で漢中入りする見せ場の場面がある
・あやうく打ち首になる場面がない →うっかりさんではないと思いたい為 ?

そういえば、前にも書きましたが、中国ドラマでは、張良も最初から、むちゃむちゃ有名人。これは、才能のある人(天才?)に、無名時代があったのは許さん!もっと完璧だったんじゃ!という考え方なんだろうか?? 
・・・わからん・・・^^;
そういえば、張良もドラマになると、行動力や、1人での見せ場が3倍増しですね・・・ 笑。

(拍手)
5/16のお2人、ありがとうございます^0^
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没年メモ [史記メモ]

今見ている呂后伝奇でそろそろ亡くなる方が出てきたので、没年を改めて調べておりました・・・。
できれば他の方も加えていければと思ってます。違ってたらお知らせ下さい^^

BC196年 韓信、彭越
BC195年 英布 劉邦
BC194年 戚姫・劉如意 盧綰
BC193年 蕭何
BC190年 曹参
BC189年 樊噲
BC188年 劉盈
BC186年 張良
BC180年 呂雉
BC178年 陳平
BC174年 劉長
BC172年 夏侯嬰
BC169年 周勃

周勃長生きしてるな!沛からの劉ファミリーなのに、みんなより一回りほど下だったとか??それを言うなら夏侯嬰もか!!
張良も没年が遅いので、「史実が違っててもう少し若い人だといいのにな~」と、ドリームしてしまいますね^^;
劉邦、盧綰、蕭何、曹参、樊噲は、まるで奥さんが亡くなり、急にお弱りになって後を追うように亡くなる夫の様に、続けて亡くなっていますね・・・。
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陳平の嫁さんの・・・② [史記メモ]

陳平と孫娘を結婚させようと決めたのは、おじいちゃん、おばあちゃん??

気になって引き続き調べてたのですが^^;

何冊かの小説では、「おじいちゃん」になってる事が多いんですよね。
史記の原文は「張負」だそうで、問題はこの「負」のようです。

昨日、図書館で大漢和辞典(大修館書店)を引いてきました。
(貸し出し禁止ですが全部揃ってて、助かる。地名調べなどに時々使用 ^^)

「負」・・・18番目の意味に、ばば、老母、老婦人とありました。そして、例文に、陳平の史記のこの箇所と、
劉邦の本紀の最初の方の、
沛県の酒屋のおばあちゃんの、王媼(王ばあちゃん)、武負(武ばあちゃん)が挙げられていました。おお!

岩波文庫の「史記世家」を再度読み直してみると、注釈のページに、
原文は「張負」で、この「負」は「婦」と同音。老母の意味。(史記)考証の説に従う、と書かれています。

「史記考証」に従わない場合は、張負という名のおじいちゃんと訳しても可なのでしょうか?^^

改めて考えていると、沛県の酒屋のばあちゃん(おばちゃん?)達も、陳平のお嫁さんのおばあちゃんも、
当時の女性が社会進出して、発言権もあった事の証明にもなるのかもと、ふと思いました。
現代でも女性の経営者は多くない気がするし^^(小さな酒屋かもしれませんが)

そういえば、「大漢風」のオリジナルですが、曹姫も飲食店を経営してて、女性陣では唯一自立してましたね^^
(月姫も途中からは軍内の労働者に・・T_T)(君児も召使として労働してたか!)

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陳平の嫁さんの・・・ [史記メモ]

「史記世家」 下(岩波文庫)を読み返し中・・・、

葬式で働く陳平を見て、後をつけて陳平の家まで行き、(←笑 ほんまかな?)孫娘を嫁がせようと決めた張氏は、ずっとおじいちゃんだと思ってました^^; おばあちゃんだったのね!!

「容貌に引き付けられ、彼から目を離さなかった」
・・・年上の女性(当時だったら若いおばあちゃん?40代とかの)→男性(10代後半~20代初め?) なのか!!!

陳平が男前だから、くらくらって図でいいんでしょうか?^^; 賢そうな顔でもあったんでしょうね。

陳平って太ってたんですかね? 史記冒頭のあの記述、「何を食べて太ってるんですか」が憎い!>_< 笑
「背が高く、美男であった」とも書いてあるので、背が高くて太ってて美男・・・。うーむ想像できない・・・。野球選手みたいな感じですか??^^;

★それと、昔からずっと気になっていたんですが(あほな話ですが・・・^^;)
背が高くて、がっしりしてたら、「お前、文官じゃなくて武官になれ」と言われないんでしょうか??

「俺は文官になりたいんだ」という希望は聞いてもらえたんですかね??
(今で言うと、男性が、事務職希望で面接に来て、「営業に行け」と言われるみたいな・・・)

どういう基準で文官と武官を決めてたのかとか謎ですが・・・。古代って適当で自由そうですけどね^^★
あんまり仕事しない食客がごろごろしてた時代だから、自由で、なんだか楽しそうですよね・・・(行ってみたい・・・。才能ないと食客になれないか!笑)

それから、中国ドラマを見ていたら、樊噲が大男でなかったり(「大漢風」はわりと高かったでしたっけ?)
張良がぷちマッチョだったりするのが、妙に気になります・・・^^

武官になって、戦うのに、体格はあまり関係ないんでしょうか?? 運動神経さえよければできる??
(アホ話でほんまにすいません^^;)



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韓信悪くかかれすぎ? [史記メモ]

いつもの岩波文庫 史記列伝3 より^^

「平民であった頃は、貧乏で品行が悪かったから・・・」

「いつも人のやっかいになり食べさせてもらっていたが、
それをいやがるものが多かった。」

「食事時韓信が訪れると、食事を出してくれない。韓信もかれらの気持ちをさとると、腹を立ててとうとう絶交してよそへ行くことにした。」(南昌の亭長の家)

「(楚王になってから) 南昌の亭長を召し出し、百銭を授けて言った、
あんたは心の小さい人じゃ。人に目をかけたのに、しまいまで見てやることはなかった」

「(鐘離眛が自殺の前に) 韓信をののしった、あなたは篤実なおひとではない」

「韓信は、漢王がかれの才能をおそれにくんでいることを知り、いつも仮病をつかって・・・、
昼も夜もう怨みを抱き、しょっちゅうくさくさと気がはれず、周勃や灌嬰と同じ身分なのを不名誉だと思っていた」

「(韓信が樊噲の家にいった時) 樊噲は送り迎えにひざまずいて頭を下げ、はなすときにはわたくし(臣)といった。
・・・韓信は門を出ると自嘲の笑いを浮かべ、おれさまも樊噲ごときと同じ仲間になってしまったとは、といった」
(・・・ここが一番嫌です!^^; つーか、これって誰かが聞いてたんかな??司馬遷の創作??)

「太史公曰く・・・、もしも韓信が道理を学び、謙虚で、自分の功績をほこらず、その才能を鼻にかけなかったならば、ほとんど理想的な人となれたであろう・・・
天下の大勢がすでに決定してから、反逆を企てた。一族がみな殺しになったのも、当然のことではなかろうか。」

うーむ・・・。


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蕭何さん質素だった! [史記メモ]

少し前に、世家を読み返していたら、最後の方に、

必ず貧しい場所に暮らし、家を建てても塀などを修築せず、
「子孫が賢者であれば、わしの質素を手本とするであろう。賢者でなくても、権力者に奪われることはないであろう」と言っていた。 (岩波文庫 史記世家)

という箇所があり、ええええええ!蕭何さんはそんなに地味に暮らしていたのか!!!とびっくり仰天しました。

この前には、劉邦に疑われないように、色々苦労していたと思われる(泣)、細かな話が羅列されており、
こういった質素な暮らしも、劉邦の警戒を和らげるためなのか、とも考えましたが、
(でも、陳平は呂雉の目を誤魔化すために、派手に遊んでたし、私程度の頭では、この人達の行動の理由がよく理解できないです^^;)

とにもかくにも、私は、お金があったのに、質素に暮らしている人の話を読むと、
立派な人やったんやな~と、やたら感心・感動します。陸賈とかもそうです。

平成の世に暮らす私は、有り余る程のお金はないが普通に暮らしてはいける、ど中流階級で、「ああ、給料が2倍あれば、いや、あと4万円あればなあ~」と時々考えたりしてますが、笑;
そんな私が、お金があったのに質素に暮らしていた人に感動するのは何故なんでしょうか・・・^^;

成功して、財産を成しても、舞い上がらずに自分を戒めて、謙虚にしている所に感動するのでしょうか・・・??

それから、張良にはこういった質素生活の記述がないので、それなりに贅沢に暮らしてたのかとも考えています。
まま、張良は、地位に固執せず、さっさと半隠居しちゃう所は、世間の絶賛を浴びていますが・・・。
私は、残された劉邦の事や、仕事を途中でほっぽり出したりしてる所がひっかかっているので、張良のここには感動はしません・・・^^; (前にも書いた様に「ほんとに病弱説」も持ってますが・・・。)

★すごく暑かったり、仕事が忙しかったりして、
ちょっと働くのが嫌になっていました。
(なっています・・・、 現在進行形かも 笑。 単純なので、そのうちけろっと、立ち直るんですが^^;)

皆さんも、どうかぼちぼちできる時には、ゆっくりしつつ、手抜きもしつつ、無理せずにやっていって下さい^^
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盧綰列伝 [史記メモ]

ここ最近、岩波文庫の史記列伝3を少しずつ読み返してますが、
「おおお!そうやったんか!」と再発見する事が多いです!

ので、時々ここにメモしようと思います^^

韓信(韓王信)・盧綰列伝 第33
盧綰は大尉として常に(劉邦の)側におり・・・衣服や飲食物その他の贈り物は格別でほかの臣下たちのとうてい期待できないものだった。
蕭何や曹参でさえ・・・、個人的な寵愛ということでは盧綰に及びもつかなかった。

ええええ!そうなんや!!!
「大漢風」ばかり見てるからすっかり「ぱしり盧綰」のイメージが定着^^;「マッサージ係り」もだ!(前に拍手メッセージ下さった方のお言葉 未だに笑える^O^)

劉邦は盧綰を対等に、大切にしていたんでしょうかね~☆☆☆
ここに蕭何、曹参の名前が出ていた事も気になりました。
盧綰の次に劉邦に大切にされていたのは、張良や陳平じゃなくて、
沛県時代から一緒のこの2人なのか?! おおおお^^

そういえば、これまた列伝の影響で、夏侯嬰と劉邦はすごく仲のいい2人だと思い込んでいましたが(「高祖と話にふけり、時のたつのも忘れるのが常であった」の一文から)
やっぱり盧綰との関係が一番深かったんでしょうか??

劉邦は、偏愛な所がある人だった気がしているので(そんな上司嫌やけどな~;笑。でも大抵の上司や社長は偏愛やな 笑)、
各人とどんな風に接していたのか興味津々です^^
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